松山晋也の決算報告


by yoroshiku-aishu
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28

「吉祥寺マイナー」のこと

■「吉祥寺マイナー」に関するエッセイ記事をアップ。今読み返すと、ずいぶんネガティヴな物言いが目立つが、しかしこのフリー・スペースの光景こそが、自分の暗い暗い青春時代のほとんど唯一の、そして最も大切な記憶かもしれない。あえて初出時のまま掲載する。また、本稿と一緒に同雑誌に載った工藤冬里のインタヴュー原稿も、折りを見ていつかアップしたいと思う。

初出:「ロック画報」08号(2002年5月発売)
text : shinya MATSUYAMA 


孤立無援が吹き溜まった“箱”
~最暗黒のライヴ・スペース、吉祥寺マイナーについての極私的回想録



 なぜ自分があれほどまでに吉祥寺マイナーに魅入られたのか。じっくりと考えたことなどない。ないが、確かに、あの薄汚い空間に身を浸していた時間だけが、自分の青春(恥ずかしい言葉だが)だったような気が今もするのだ。70年代末期から80年代初頭にかけてのわずか2年半ほどしか存在しなかった、名前通りにマイナーなこの喫茶店兼ライヴスペースは、東京のアンダーグラウンド・ロック・シーンが回顧される時、番外編的にちょこっと触れられるのが常である。実際にあの店に通っていた常連客なんて、おそらく数十人だろうし、1度でも行ったことのある人間だってせいぜい200人ぐらいじゃないのか。それほど、いつも閑散とし、うち捨てられたようなムードが漂っていた。今回、マイナーについて何か思い出話をと編集部に頼まれて、引き受けたものの、実際、思い出してみようにも、具体的な出来事というものが、あまり頭に浮かんでこないことに僕自身驚いている。あれほど好きで、しょっちゅう通い、いろんなライヴを観たはずなのだが、記憶はぼんやりとかすんでいるのだ。残っているのは、砂浜に打ち上げられた枯れ木のような感覚だけである。当時の僕が枯れ木同然のグータラ学生だったからなのか、それともマイナーという存在自体が本質的に空洞だったからなのか…。
a0188464_39042.jpg

 初めてマイナーを知ったのは、大学2年になったばかり、ということは79年の初夏か。当時愛読していた雑誌フールズ・メイトのインフォメーション欄を見たのだと思う。現在はヴィジュアル系雑誌になっているが、70年代後半に北村昌士(後にYBO2を結成する)によって創刊されたこのミニコミ誌は、当時はユーロ・プログレ/アヴァンギャルド音楽の専門誌であり、僕にとっては、隅から隅まで嘗め尽くすように熟読する唯一の音楽誌だった。当時のフールズ・メイトにこんなインフォメーションがある。「貸ホールminor 吉祥寺駅1分 ◎6月のハイライト イタリアン・ロックの全て パート1/6月13日 パート2/6月21日 PM7:00~ DJ北村昌士 ドリンク付4百円」。北村は前年から、できて間もないマイナーで、定期的にユーロ・ロックのレコード・コンサートをやり始めていたのだが、おそらく、僕が初めてそこに足を運んだは、この79年6月13日だったはずだ。初めて足を踏み入れた瞬間の、なんと自分の好みにぴったりな場所であることよ、というあのむずがゆいような感覚が今もはっきりと甦ってくる。

 国電(JR)吉祥寺駅の東口を出て、北側線路沿いを西荻窪方向にちょっと歩き、左折してすぐ。周囲はピンク・キャバレーやトルコ(今のソープ)などが林立する風俗エリアの雑居ビルに目指すマイナーはあった。隣は賑やかなロック喫茶、下は会員制クラブ(バー)だったと思う。僕が最初に気に入った点は、椅子やテーブルに、ビール瓶を入れるプラスティック・ケールを用いていることだった。店内はコンクリートの壁がむき出しになり内装らしきものは何もなかったし、店員のサーヴィスらしきものもゼロだったように思う。その代わり、安い。一応イヴェントのようなものだがチャージなんてないし。そういったことから、余計なものには金も気も使いたくない、本当に好きな奴だけが勝手に来て勝手にやってくれ、といった店側の主張のようなものを僕は感じたのだ。徹底的に簡潔かつフリーである心地良さ、が漂っていた。当時は音楽といえばフュージョンにディスコにパンクにテクノ。「ポパイ」文化全盛で、どこに行ってもオシャレというかスカシたマニュアル野郎だらけの「なんとなく、クリスタル」前夜だったわけだが、マイナーの店内には、そういった巷の華やいだ陽光はただの一条も差し込んでおらず、どんよりとした重たい空気が満ちていた。ユーロ・プログレ・ファン特有のオタクぽいというか秘密結社的な邪気(その時は客は全部で20人ほどだった)のせいもあったとは思うが、それ以上にやはり、店そのものの持つムードが大きかったと思う。その暗い洞穴のような空間で、北村は大音量でアレアだのバンコだのをバキバキとかけまくった。壁には、間章と並び、当時僕が音楽評論家として唯一尊敬していた竹田賢一が主宰する「ヴェッダ・ミュージック・ワークショップ」なるユニットのメンバー募集(半数は全く楽器のできない素人でやりたい旨が書かれていた)のポスターとか、ガセネタだのワースト・ノイズだののライヴ・チラシが貼られている。果たして、終わった時には、ここは俺のためにできた場所だと固く信じ込むまでになっていたのだった。毎日ココニ来ナクテハイケナイ…。

 当時僕は、小田急沿線に住んでいたのだが、その夜、吉祥寺への引っ越しを決意。秋には、東急デパートのちょっと裏手のぼろアパートに引っ越して、いよいよ“俺のための場所”への日参が始まった。今度はレコード・コンサートではなく、ライヴを観るために。当時よく観たミュージシャンといえば、白石民夫、不失者、光束夜、ノン・バンドといったとこか。客で来ていた山口富士夫が酔っ払って(ラリって?)「イェーイ!」と絶叫しながら一人でタコ踊りをしていたこともあったし、ギターをかきむしる灰野の姿に感極まった若い男が「灰野さんっ!」と泣きながら灰野の腰にしがみついたこともあった。店の開店時間が曖昧というかいいかげんなことは、他の比ではなかった。ライヴの時間になっても店が閉まっており、ビルの階段に1時間も2時間もずっとしゃがみこんで待ったことが何度あっただろう。「店長のアパートに行こう」という掛け声もしばしば聞かれた。そしてとにかくいつも客が圧倒的に少なかった。10人以下なんてのは普通。ひどい時は、バンド・メンバーの数より客数が少ないことも。特に「愛欲人民十時劇場」なんて、客が僕一人しかいなかったことも何度かあった。黒いストッキングをはいた女装の白石民夫が僕ひとりを相手にサックスをピーピー吹き鳴らす、その寒々とした時間はほとんど拷問か苦行に近かったと思うのだが、しかし、その苦行はまたなぜか甘美でもあった。
a0188464_319731.jpg
           
 マイナーがジャズ喫茶としてオープンしたのは78年の3月である。オーナーの佐藤隆史は、香川の高校を中退した後、絵の勉強をしに上京し、フリー・ジャズ(とりわけ山下洋輔)にやられて自らもピアノを弾くようになり、やがてこの店を開いたという。同じ頃、高円寺で鳥井ガクがやっていたロック喫茶トルバドール→ブラック・プールの客仲間である川田良(フールズ)や工藤冬里たちとワースト・ノイズを組んでいた(佐藤はドラマー)ことも手伝って、ほどなくロック/アヴァンギャルド系のライヴや客が多くなり、マイナーはスペースとしての外観も性格もどんどん変っていった。このあたりの変貌について、ミュージック・マガジン80年6月号で竹田賢一がリポートしているので、ちょっと長いがそのまま引用しよう。

 「開店した当初は、壁には絵の額が飾られ、卓上には花が置かれ、カレーの味を誇る(?)小奇麗なジャズ喫茶だった。それが数ヶ月後には、かかるレコードも“ニュー・ジャズ、現代音楽、プログレッシヴ・ロック等の周辺”となり、自主コンサートにも場所を提供し始める。もちろんコンサートの際にはテーブルなどが邪魔になるので、壁面に積み重ねられたり、廊下へ運び出されたりする。その情景がジャズ喫茶としてのマイナーの解体の始まりを告げていたのだろう。以後、コンサートやワークショップの比重がどんどん高まり、レコードがかかるのはそれらの合間のレコード・コンサートの時ぐらいになり、演奏の役に立たないテーブルや椅子やカンウター、厨房は次第に壊され、いつしかマイナーは“フリー・ミュージック・ボックス”と自らを規定するようになった。更にスペースの変容が進み、床が剥がされ、冷蔵庫を除いて厨房がなくなり、折りたたみ椅子が置かれステージができた現在でもこの規定が生きているかはともかく、要するに誰もが勝手に音楽を作る(あるいは壊す)ことのできる箱となったのである」。

 そう、フリー・ミュージック・ボックス、箱という表現が一番ぴったりくる。ここには、東京ロッカーズ系のオシャレな余波は及ばず、また奥多摩(福生~国分寺)方面のヒッピー臭もなかった。いや、どっちからも相手にされなかったと言った方がいいかもしれない。世間のムーヴメントとは隔絶した、脆弱かつナイーヴではあるけど際限なく自由な空想家たちが思い思いに音をぶつけ合う孤島。何よりも「東京ロッカーズ」などといういちゃついたネーミングに嫌悪感を抱いていた僕にとっては、この、どこにも帰属せず、誰にも与しない、あるいは打ち捨てられたような孤立感こそが、心地良かったのかもしれない。
 はっきり言って、そこで行われていたライヴは、お世辞にもクオリティが高いとは言えなかった。ただのシロートのデタラメにしか聴こえないものも少なくなく、これが一体いかなる新しい音楽の誕生につながっていくのか皆目見当がつかない、つまり希望ってやつがほとんど見えなかったと言っていい。誰もが虚空に向かってやみくもに音を放っている、総体としてはそんな印象を当時から僕は抱いていた。特に、マイナー名物とも言える、夜ごとのフリー・セッション「愛欲人民十時劇場」に渦巻く負のエネルギーたるや…。孤島にこだます魑魅魍魎の雄叫びは刺激的ではある。そしてやがて、その暗闇に堆積した徒労感の重みに耐えられなくなった時、僕の足はマイナーから急速に遠のいていったのだと思う。マイナーは80年9月27日に閉店したが、その2ヶ月ほど前から僕はほとんど行かなくなっており、久しぶりに行った時は、既になくなっていた。
a0188464_3222747.jpg
          
 実際にその場で演奏していたミージシャンたちはどうだったのか。よくライヴをやっていたマイナー派の代表の一人と言ってもいい工藤冬里は、今回のインタヴューでこう語った。
 「そこには音楽的可能性なんて何もなかったですよ。とにかく、在るべき音楽の位置よりも必ず低い。普通、最低でもゼロなんだけど、マイナーでは何をやってもマイナスなんです。ドミソでも弾けば+0.01ぐらいにはなるわけだけど、そこまでもいかない。僕の場合だけかもしれないけど。僕らのような音楽は、他にできる場所がなかったんです。当時荻窪に住んでたんだけど、お金がないし、マイナーしか行く場所がなくて、いつも歩いて行ってた。で、帰り際、パン屋の裏に捨ててあるパンの耳とかを拾って食べてた」
 身もふたもない回想だ。が同時に、「福生派からも渋谷/高円寺派からも中途半端だとバカにされる吉祥寺マイナー的スタンスというのが、対極的に見ると自分には合っていた」とも認め、また「チューリッヒ・ダダの拠点のキャバレー・ヴォルテールはわずか半年ぐらしかなかったんだけど、今でも皆口にする。ああいう店は長さじゃないですよね」と目を細めたりして、複雑な感情を覗かせる。

 マイナー派には、アンダーグラウンド的な連帯感、仲間意識はあったのだろうか。
 「86~87年ぐらいまでは、私たち、みんな、という共同体的言葉が生きていたでしょう。必ずしも仲が良かったわけじゃないけど、時々、マイナー系の人たちも集まって同窓会的なことをやったりしてた。だから、あそこには仲間意識はあったのかもしれないな。でも僕の場合、仲が良かったのは金子寿徳(光束夜)と角谷美知夫(腐っていくテレパシーズ)ぐらいかな。歳もだいたい同じで。3人でツアーしたこともある。だいたい、人と共同作業できる人はマイナーにはこないですよ。皆、自分のやり方が決まってて。だから、連帯感ではなく、自分のスタイルが決まってる人たちが吹き溜まってる感じだった。と言いつつ、僕もイヴェントを企画したこともあったな。腐っていくテレパシーズ、不失者、ガセネタ、僕のバンド、あと女子高校生バントなどを集めて、1ヶ月毎日連続でマイナーでやったことがある。けっこう連帯感があって盛り上がり、がんばろう、と。でも途中でだめになって、僕が一人で土方やって金を返したんだけど」
 こういった工藤の見方に反発する当事者もきっといることだろう。白石民夫や灰野敬二の意見も聞いてみたいところだ。マイナーに関して最も詳しく記述された資料としては、ガセネタのベーシストであり、またマイナーで店員までやっていた大里俊晴(現在は音楽学者)が書いた「ガセネタの荒野」(洋泉社)という単行本がある。マイナーという闇の深さについて、そしてオーナー佐藤隆史の破格の壊れ方などがこと細かに書かれた、これまた愛憎入り乱れた奇書だ。
 その佐藤は、マイナーを閉めた後、すぐにピナコテカというインディ・レーベルを始め、灰野敬二のファースト・ソロ・アルバム『わたしだけ?』やオムニバス盤『愛欲人民十時劇場』などいろいろ出したが、これまたすぐにつぶれてしまった。工藤によると「佐藤さんは、全国から送られてくるデモ・テープを聴きすぎて中耳炎になり、耳から膿が出たんです。ドロドロの音を聴きすぎたんですね。かわいそうだった」ということらしい。漏れ聞くところによると、今はセスナの運転免許取得に燃えているという。不思議な人だ。

 歴史的ムーヴメントとは関係なく、吉祥寺の風俗街で短い一生を終えたマイナーではある。いずれのムーヴメントやサークルからも孤立したまさに“マイナー”な人々が“マイナー”な音楽だけをやり尽くしたこの希有な自由空間が、スタイルと流行とお友達関係だけで成り立っていた80年代の幕開けと共に消え去ったのは、当然だったと思う。と同時に、この、対価も評価も求めずに表現欲求だけを頼りにするマイナー的スタンスというものが、個々人の散発的な表現活動が飛躍的に活性化した現在の時代的気分に妙にフィットすることも確かだ。いつかマイナーのような店をやりたいと思い続けて、もう20年が過ぎたのか。

a0188464_2514396.jpga0188464_2522829.jpg
by yoroshiku-aishu | 2011-01-25 02:29